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1997年5月15日、沖縄・伊江島の反戦地主は、基地ゲート前で餅をつきカチャーシーを踊った。

沖縄反戦地主

1997年5月15日、沖縄・伊江島の反戦地主は、基地ゲート前で土地の明け渡しを求める集会を開き、餅をつきカチャーシーを踊った。
餅つきもカチャーシーも本来はめでたい時に行うものである。

軍事基地に土地は貸さない

沖縄の米軍基地は、戦闘終了直後は住民が収容所に入れられている間にあたかも白地図に線を引くように、また1950年代には「銃剣とブルドーザー」で住民から土地を奪って作られた。
従って、その土地は(本土の基地とは違い)、個人の所有地の割合が多い。
1972年の本土復帰以来、日本政府は、個々の地主と賃貸借契約を結び、日本政府が地料を払い、米軍には無償で提供してきた。
しかし、自らの信念で、この賃貸借契約を結ばない地主もいる。
県民の4人に1人が亡くなったといわれる沖縄戦での経験、さらにベトナム戦争当時は米軍の兵站補給・出撃基地として使われ加害者の立場を押し付けられた経験、そして先祖伝来の土地への愛着など、理由は様々だが、この契約を拒否している地主がいる。
契約拒否地主、沖縄では「反戦地主」と呼ばれている人たちだ。

反戦地主の土地は、復帰後も強制収容され続けている。
1972年から5年間は「沖縄公用地暫定使用法」によって、1977年から5年間は同法の延長によって。
復帰時点で公用地(その大部分は軍用地)であった土地は、いっさいの手続きぬきで5年間引き続き「暫定使用」できるとする法律である。
反戦地主には、「基地のためには土地は貸さない」という意思表示の機会さえ与えられなかった。
何の手続きもなく、しかも軍事目的のために私有財産を制限する事は明らかな憲法違反であり、「法律という名の銃剣とブルドーザー」「土地強奪法」と呼ばれた。
沖縄は、日本国憲法のもとへの復帰を目指したが、実際に適用されたのは憲法ではなく安保条約であった。

同法の期限切れにあたる1977年5月に向け、政府は同法の5年延長をはかったが、国会での採択が間に合わず「空白の四日間」が生まれた。
一部の反戦地主は、この四日間に基地内の自分の土地に立ち入る事ができた。

再び期限の切れた1982年5月からは「米軍用地特措法」が土地取り上げの根拠となった(注1)。
「米軍用地特措法」が準拠する「土地収用法」は、戦後の改正で新憲法の精神に従って軍事目的の土地収用を削除されている。
「米軍用地特措法」自体が、憲法違反の疑いの濃厚な法律であり20年以上発動されずにいた法律である。
だからこそ政府は復帰にあたって米軍用地特措法の適用ではなく、新規立法(公用地法)を選んだ。
82年からは5年間、87年からは10年間、米軍用地特措法によって反戦地主の土地は「強制収用」されることとなった。

復帰から数えて4度目の強制使用の期限切れ間近の1995年に沖縄の世論は大きく動いた。

1995年の少女暴行事件と大田沖縄県知事の代理署名拒否

1995年9月に米兵による少女暴行事件が起きた。
地位協定によって、日本側に犯人逮捕の権限がない事、
そしてこの事件は氷山の一角にすぎない事など、この事件を契機に沖縄の世論は大きく動いた。
米兵による、強盗、暴行、殺人事件、交通事故、米軍機の墜落、ニアミス、緊急着陸や山火事、燃料・廃油の流出、流弾、誤爆事件が相次いだ。
米軍が身柄を拘束していたはずの犯人が帰国・逃亡する事件もあった。
復帰後23年間の米兵犯罪検挙数は4790件、殺人12件、強盗355件、婦女暴行31件であった。
さらに官僚(宝珠山防衛施設庁長官)による「沖縄は基地と共存せよ」という発言があった。
10月21日には、8万5000人が集まって抗議と地位協定見直し・基地縮小を求める「県民大会」が開かれた。
こうした闘いは「(1950年代の)島ぐるみの土地闘争」の再来と言われた。

米軍用地特措法による強制収用の手続きでは、その対象となる土地を特定し、面積などの調書を作成しなければならない。
そして起業者(国)は、土地所有者を立ち会わせた上、その調書に署名捺印させなければならない。
地形が変わると言われたほどの沖縄戦と、その後の基地建設によって地籍が明確でない場所も多い。
また、自らの土地に入る事を土地所有者は求めていたが国側はこれを拒否した。
反戦地主の多くは、地籍も明確でなく、その上に立つ事もできない土地の調書への署名捺印を拒んだ。
土地所有者が、署名捺印しない場合は市町村長に、市町村長も署名捺印しない場合は県知事に「代理署名」を求める事になっている。
本人が自分の土地である事を確認できない土地を、市町村長や県知事が確認できるわけがない。
那覇市長、沖縄市長、読谷村長がこの代理署名を拒否した。

当時の大田沖縄県知事も、高まる世論を背景に、この代理署名を拒否した。
この知事の決断が、さらに世論を喚起するという循環の中で、知事は内閣総理大臣の職務執行勧告・命令も拒否した。
さらに、国は知事に職務執行を求めて裁判を提訴した。
現在国と沖縄県の間で裁判が争われているが、20年前にも、国と沖縄県の間で裁判があった。

こうした中で、97年5月からの強制収用の手続きは大幅に遅れた。
誰の目にも手続きが間に合わない事が明白となった。
77年の「空白の四日間」が再現される可能性がでてきた。
政府は米軍用地特措法の改悪を4月3日、閣議決定をした。
収用委員会で審議中の土地については、裁決がでるまでの間「暫定」使用できる、
また収用委員会の裁決に起業者(国側)の不服がある場合、国側は建設大臣に審査請求する事ができ、その審査が終わるまでの間も(何年間でも !!)「暫定」使用できるという、起業者にオールマイティのジョーカーを与える改正だった。
この改正案は4月17日に国会で成立した(注2)。

米軍占領下の土地闘争、復帰後の反戦地主の闘いは辺野古に受け継がれて

4度目の強制使用の期限が切れる1997年5月15日、この日までに次の強制使用の手続きが完了していなくても、改正米軍特措法によって反戦地主の土地は引き続き強制使用される事となった。
反戦地主の「土地を取り戻す」という闘いは一歩後退したかに見えた。
この日、沖縄・伊江島の反戦地主は、基地ゲート前で土地の明け渡しを求める集会を開き、餅をつきカチャーシーを踊った。
餅つきもカチャーシーも本来はめでたい時に行うものである。

だが、「銃剣とブルドーザー」に素手で抗し、逮捕投獄、威嚇射撃、軍用犬による追い出しにも屈せず米軍基地内に入って生きるために耕作し基地内に自分たちの看板を立てるという米軍占領下の闘いに比べれば、
また、自分たちの意思表示をする機会さえ与えられなかった復帰後10年間の闘いに比べれば、一歩前進なのかもしれない。
なんという考え方のスパンの長さ、そして楽天主義なのだろう。
自分たちの闘いに確信がなければこれほど楽天主義に徹する事はできないであろう。

なぜ、20年前の事を書こうと思ったか。
今、「現代の銃剣とブルドーザー」と言われる機動隊の直接的な暴力にも屈せず諦めず、辺野古での新基地建設に反対する運動を見ていて共通の気質を感じる。
ネットを通じてその楽天的な闘いが伝わってくる。

例えばその一つ、こうだ。

三上智恵の沖縄撮影日記より
 辺野古のゲート前闘争が始まってから二度目の正月を迎えた。前回の正月は、なんと言っても歴史的な知事選の勝利に加え、「辺野古基地建設反対」から「推進」に転じた自民党議員を全員選挙区で落選させた衆議院選挙の直後だっただけに、座りこみテントは大晦日からどんちゃん騒ぎだった。みんな口々に「いい正月~!」と勝利を確かめ合った。
 「いい正月」という言葉はもちろん、その前年の暮れに政府の懐柔策に乗って埋め立てを承認した前知事が「これでいい正月が迎えられる」と言って県民を唖然とさせた、あのフレーズへのリベンジである。しかしあれからの一年。二つの選挙の完全勝利も無かったことのように、2015年、政府は辺野古の基地建設を加速させた。去年の終わりには、翁長知事の「埋め立て承認撤回」を無効にする裁判まで国が提起した。県も抗告裁判で国を相手取って司法の判断を仰ぐ。県は国と全面対決する覚悟だが、ボーリング調査もほぼ終わりいよいよ実質上の埋め立て開始もカウントダウン状態に入った。
 そんな年越しで、現場はどんなに厳しい表情で新たな年を迎えるのか、とおもいきや、動画を見て欲しい。大晦日が明けてみれば去年の三倍近くの人が辺野古の浜に押し寄せていた。みんなの表情は底抜けに明るい。鮮やかな衣装に金の扇で舞う「かぎやで風」の人数も、去年より格段に増えた。そこに真っ赤な初日の出。朝日を浴びた踊り手の誇らしげな表情。
 政府が容赦なく北風を強めれば強めるほど、より多くの県民が輪に加わり、より強い力で腕を組もうとする。向かい風が強く、道が険しいからこそ体力がついた。それでも負けなかったことを喜び合うことがエネルギー源になった。何のことはない。シンプルにいえば、現場はパワーアップしたのだ。
 辺野古の浜は東に開けているので初日の出の人気スポットだが、700人もの人が元旦の辺野古の海岸を埋め尽くしたのは恐らく初めてだろう。ラインダンスで全員手を繫ぎながら輪を拡げていったら、波打ち際まで来てしまった。初日の出が拝めたのも、ここ数年なかったことだった。なんとも幸先のいいスタートになった。

http://www.magazine9.jp/article/mikami/24974/

また、機動隊の暴力に直面し、負傷者や逮捕者を出しながらも徹底した非暴力不服従の闘いは、伊江島での土地闘争を思い起こさせる。
1950年代の伊江島での土地闘争の中から生まれた陳情規定にはこう書かれている。

陳情規定
一、反米的にならない事。
一、怒ったり悪口を言わないこと。
一、必要な事以外はみだりに米軍にしゃべらない事。正しい行動をとること。ウソ偽りは絶対語らない事。
一、会議の時は必ず座ること。
一、集合し米軍に応対するときは、モッコ、鎌、棒切れその他を手に持たないこと。
一、耳より上に手を上げない事。(米軍はわれわれが手をあげると暴力をふるったといって写真を撮る。)
一、大きな声を出さず、静かに話す。
一、人道、道徳、宗教の精神と態度で接衝し、布告・布令など誤った法規にとらわれず、道理を通して訴えること。
一、軍を恐れてはならない。
一、人間性においては、生産者であるわれわれ農民の方が軍人に優っている自覚を堅持し、破壊者である軍人を教え導く心構えが大切であること。
一、このお願いを通すための規定を最後まで守ること。
1954年11月23日 真謝、西崎全地主一同
(阿波根晶鴻「米軍と農民」岩波新書 より)

この闘いの中で建てられた「団結道場」の壁にはこうも書かれている。

米軍に告ぐ
一、土地を返せ ここは私たちの国
  私たちの村 私たちの土地だ
一、侵略者伊藤博文 東条の悲劇に学べ
  汝らは愛する家族が米本国で待つている
一、聖なる農民の忠告を聞け
  さらば米国は永遠に栄え
  汝らは幸福に生きのびん
○ 剣をとるもの剣にて滅ぶ (聖書)
○ 基地を持つ国は基地にて滅ぶ (歴史)
1955年5月 伊江島土地を守る会

「モッコ、鎌、棒切れその他を手に持たないこと」や「耳より上に手を上げない事」は、弾圧を避けるための当然の規定かもしれない。
「人道、道徳、宗教の精神と態度で接衝し、布告・布令など誤った法規にとらわれず、道理を通して訴えること。」「軍を恐れてはならない。」「人間性においては、生産者であるわれわれ農民の方が軍人に優っている自覚を堅持し、破壊者である軍人を教え導く心構えが大切であること。」という規定が生まれた時点で、既に、農民の心構えの方が米軍を圧倒していた。

半世紀以上前に作られたとは思えないこの規定が、今まさに辺野古での闘いに生かされている、
今の沖縄の闘いの中にも米軍占領下の土地闘争や復帰後の反戦地主の闘いの積み重ねが生きているように思える。


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・注1 米軍用地特措法や土地収用法では、準司法的性格の中立の「収用委員会」が起業者・土地所有者双方の意見を聞き、土地収用の可否や収容期間を決める。ただし収用委員会が中立性を保っているかどうかは、司法と同様、別問題。

・注2 米軍用地特措法は後日さらに改正され、「代理署名」を首長から取り上げ内閣総理大臣の職務とした。

参考文献
阿波根晶鴻「米軍と農民 沖縄県伊江島」岩波新書
阿波根晶鴻「命こそ宝 沖縄反戦の心」岩波新書
新崎盛暉「沖縄現代史 新版」岩波新書

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